東欧を寝台列車で旅行してみた!(前編)ハンガリー、セルビア、ブルガリア、ルーマニア

2018年4月14日土曜日

探検記

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 2018年2月20日から2018年3月15日までの18日間の日程で私は同じくドイツに留学中のたいら先輩と二人でハンガリー、セルビア、ブルガリア、ルーマニア、モルドバ、沿ドニエストル 、ウクライナの7つの国と地域を視察した。以下はその旅行記の前編である。


1. ハンガリー、ブダペスト (Budapest):2/20~2/22




初日はフランクフルトからブダペストまで航空機で移動した。ハンガリーの物価はドイツより若干安いか、同じくらいである。ブダペストの建築はどれも壮大な規模のものばかりであり、公共交通にトロリーバスが加わることと、トラムの車両が旧式であること以外はあまりドイツと変わらない印象を受けた。


22日夜にこの寝台列車でセルビアはベオグラードへと旅立つ。


 停車中の車内は明かりが消され、薄暗い。この廊下の左側に3段ベット2台を備えた6人部屋がずらりと並ぶ。


 乗客は非常に少なく、我々の他には隣の隣に若者4人組がいただけである。この4人組がなかなか面白い。廊下にビール瓶を転がしながらわいわいと賑やかであった。ガタンと大きな物音がするので廊下を見るとそこで側転をしていた。そうかと思うと、しばらくして我々の部屋を訪ねて来ては「茶色い財布を見なかったか」と訊く。それは非常に大切なものであるから、もし発見してくれたら報酬として60ユーロを払うという。後に車掌が切符確認に来た際には切符を無くしたので見逃して欲しいと嘆願していた。暫く話し込んだのち、車掌が許すと「あなたは私の救世主だ!」と感謝していた。始終そんな調子であった。



2. セルビア、ベオグラード (Београд):2/23~2/24


 8時間の列車移動を終え、ベオグラード駅に着いたのは朝の6時半頃であった。駅を出るとタクシーのおじさん達が「Taxi?」と言いながら群がって来る。彼らは外国人の金を目当てにしたぼったくりタクシーである。気を付けなければならない。

 ベオグラードには要塞跡があり、そこを我々は訪れた。


 


 要塞外苑に面白いベンチがあった。何が面白いのかといえばその危険な立地である。このベンチに辿り着くには一枚目の写真中央右側に写っている角度30度ほどの通路を登らなければいけない。その通路の下側はガクッと下に折れている。そして三枚目の写真からわかる様に、その通路の左右もまた、絶壁である。落ちれば、死にはしないものの怪我を負う高さである。もっと崖の高さがわかる様な写真を撮ればよかったのにと思われるかもしれないが、如何せん怖かったのでそれは叶わなかった。今回の旅行で一番怖かったのがこのベオグラード要塞のベンチである。


 これはコソボ紛争中にNATO軍の爆撃によって破壊されたビルである。

さて、ベオグラードから次の目的地ブルガリアのソフィアまでの移動は当初24日午前6時40分の列車を使う予定であった。しかし、当初の計画案では経由地ニーシ(Niš)での乗り換え時間が4分しかなく、それでは不十分であるとの切符売り場の駅員の助言から、午前6時40分を改め、その一本前の午前4時の列車に乗ることになった。

 時刻は24日の午前3時。我々は宿泊先の玄関を出た。制限時間は60分。公共交通機関はまだ営業していない。日の出前のベオグラードの街を前夜にダウンロードしたグーグルマップを頼りにひたすら駅まで約3.7キロの道のりを歩く。

 たかだか3.7キロの道のりなのだから、60分もあれば余裕で着く予定であったが、途中、通れると思っていた道が自動車専用道路であったため通れなかったことと、暗がりで道の案内が悪かったこともあり、行軍は難航した。汗をかきながらベオグラード中央駅に到着したが、駅およびその周辺は建設途中であり、案内標識が未整備であったために、駅の入口を見つけるのに少しばかり難儀した。やっと侵入に成功し、案内所にてニーシ行の列車が何番線ホームにあるのか聞いたのち、階段を地下通路へ降りて目当てのホームに行こうと試みるも、如何せん建設途中の駅であるので、どの階段が何番線ホームへ繋がっているかの案内表示がない。仕方がないので自分が降りてきたところから数えて、目的のホームに出られると思われる階段を駆け上ると、果たしてニーシ行の列車はそこにあった。

 列車に滑り込み、座席に座ったのが午前3時55分であった。その5分後に列車は定刻通り出発した。

 途中、セルビア人のおじいさんが我々の隣の席へやって来て、私を彼の対面の席に手招きするので、私はそこに座った。するとずっとセルビア語で話し掛けてくる。私は何とか少しでも理解しようと真っ直ぐに目を見つめて真剣に聞いていたが全くわからない。英語が話せますかと英語で聞いても、だめ。ドイツ語が話せますかとドイツ語で聞いても、やはりだめであった。それでも一向に構わず、ずっとおじいさんはセルビア語で話し続ける。途中、何かを語り掛けるような口調で喋りながら私の手を両手で握り、自分の胸に手を当て、そしてそれから天を指さし、そしてまた私の手を両手で包んだ。皺だらけの顔には柔らかな笑みを浮かべている。神様はいつでも見守っているよ、と言われたような気がした。

 ニーシにて列車を無事に乗り換えると、今度は我々の隣にソーセージとパンを食べているおっちゃんが座った。そのおっちゃんは我々をみるなり、ソーセージをナイフで切り分けて、それを我々にくれた。そして、その肉についての説明をジェスチャーとその動物の鳴き真似で示してくれた。その鳴き真似というのが「アウアウ」というものであった。恐らく犬を示しているのではないかと思った。つまりは犬肉のソーセージである。なかなか美味しかった。



3.ブルガリア、ソフィア (София):2/24~2/27




 折角のバルカン半島であるから、ブルガリアにてヨーグルトを食べない手はないと思い、それを目的にブルガリアの首都ソフィアに来た。早速スーパーにてヨーグルトを買った、食べた、美味しかった。目的を果たした。

 他には、アレクサンドル・ネフスキー大聖堂近くで、旧ソ連やナチスのバッジなどの雑貨を売っている蚤の市があるというので、行ってみた。しかし、季節は冬であり、観光客も少なく、また、その日は寒波が襲ってきていたというのもあり、店は2軒程しか開いていなかった。私はそこでレーニンバッジを買った。

 さて、冬に東欧を旅行する際に気を付けなければならないのは靴である。というのも、私はナイキのボロボロのスニーカーで来たが、冬の東欧の道には雪解けの水たまりがあちこちにあり、路上環境が非常に悪い。私の靴はブダペストで既に水没し、茶色く汚れ、不快な臭いを放っていた。つまるところ、靴が腐った。なんとかブルガリアまで持ちこたえたものの、彼の地にて寒波に襲われ、現地の人でさえ誰一人としてスニーカーなぞを履いている者はなく、これは忌忌しき事態であると悟った私はそこで防水ブーツを買った。冬の東欧に防水ブーツは必須である。
 


4. ルーマニア、ブカレスト (București):2/27~3/2


 ブルガリア、ソフィアからルーマニア、ブカレストへ向かう途中の乗換駅ルーセ (Ruse) にて午後4時10分に発車するはずの列車が来ない。駅員にブカレスト行の列車の時刻を聞くと、午後5時と言われる。30分後にまた聞くと今度は午後5時半と言われる。聞く度にどんどん遅い時刻を伝えてくる。何がどうなっているのか説明も案内もない。どうやら遅延しているのは確かなようだが、なぜ遅延しているのかは駅員にもわからないようである。

 すると、同じくブカレスト行の列車を待っていたルーマニア人男性から、彼の知人で国境警察にて働いている者があり、その人によるとブルガリアとルーマニアの国境たるドナウ川に架かっている橋の上で爆発を伴うトラック事故があり、通行止めになっているとの情報を得た。これでは、本日中に列車が出るかどうかも分からない。仕方がないので薄暗い待合室にてずっと待つ。

 午後8時ごろになって、ようやく列車が来るとの案内があり、それに乗った。そこまではよかったのだけれども、橋を越え、国境検査を終えてもなお、また再び線路上でずっと長いこと停車している。外は吹雪いている。どうやら、悪天候のようである。しかし勿論遅延の案内などはない。なぜ遅れているかを知ったところで、どうにもならないものはどうにもならないのでそれでも一向に構わなかったが、結局ブカレストに着いたのは日付の変わった午前3時であった。計8時間の遅延である。

 外は相変わらず吹雪いていたが、公共交通は営業前であるし、タクシーにはぼったくられるだろうということで我々は宿まで約2.4キロの道のりをまた再び真夜中に歩いた。2.4キロくらい大したことないと思っていたが、夜の吹雪の中ではそれはいささか困難な行軍であった。しかし無事についた。



 
 フランスの凱旋門かと思うが、実は違う。旗が青白赤ではなく、青黄赤であるルーマニアの首都ブカレストの凱旋門である。ブカレストには80年代にルーマニア共産党書記長チャウシェスクが建てた「国民の館」と呼ばれる、床面積世界第二位を誇る壮大な建造物があり、そこを見学した。それ以外は特に書くことはない。

後半に続く

東欧周遊概説後半:モルドバ、トランスドニエストル、ウクライナ


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