乞食に寄付をするべきか
いつだったか、海外でこんな事件があったそうだ。クリスマスイブに外で凍えるホームレスの男性を見た女性がその人を可哀想に思って自宅に招き入れた。そして温かい飲み物と食べ物をあげて、その夜はその暖かい部屋の柔らかいソファーで寝かせた。そして次の日、女性は仕事があったので、男性にどうか出て行ってくださいと言った。すると男性は怒り、女性に暴力を振るって出て行った。その後女性はPTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱えた。
暴力を振るうというのは言語道断いけないことだ。どんなに怒っていたってそんなことはやってはいけない。しかし、なぜ怒ったのか。
寒くて寒くて凍えていた中、暖かな家に迎えてもらったときはさぞかし嬉しかったろう。人間の温かみを感じただろう。しかし、そのありがたみが大きかった分、また再び凍える路頭へ出て行ってくれと言われたときの悲しみもまた大きなものであったろう。ああ、やっぱり世界はこんなにも残酷なのだと再び絶望の穴に突き落とされる気分であったろう。そう想像すると、彼の受けた仕打ちもまた残酷だ。
では、その女性はどうすればよかったのだろう。困っている人を見かけたときにその人を助けたいと思う愛は美しい。では、それをどのような形で与えるべきであったのだろう。
日本ではあまり、お金の寄付を募っている乞食ということをしている人はあまりいないようだが、同じように路頭で暮らす人々がいる。多くの人は見て見ぬふりをして通り過ぎる。私も、通り過ぎる。
そんなときその状況をどう釈明するべきだろうか。自分のために贅沢をする金はあるが、その困っている人に分けるお金は一銭もない。前世の行いが悪いからだとか、怠けものだからとか理由をつけるのだろうか。自分とは関係ない、自己責任だと考えるのか。お金をあげてもその場しのぎの対症療法だからあげない。では、その代わりに政府などに根本的な解決を求めるよう何かしらを働きかけるというような面倒をするだろうか。
でもよくよく考えたら、きちんと社会にはセーフティーネットがある。私たち市民が助け合いのためにそのセーフティーネットを張っている。そう考えると、少し安心する。でも昨今は自己責任論がどんどん広がっているように感じる。助け合い支え合いの心の余裕が少なくなってきているのかもしれない。直接の寄付、納税、年金保険料収納にしても、政治に意見をするにしても、私たちの社会に暮らす全ての市民でお互いを支え合っているのだということを忘れないようにしたい。