ちょっと前に、慶應義塾大学の社会学教授が書いた著作を読んだ。たしか、日本社会のしくみというタイトルであった。ちょっとその内容をうろ覚えながら思い出してみる。
ちなみに私自身は米国に住んでいたことがあり、また、大学在学中はドイツに洋行したりもしたので、その知見も含めて考察してみる。
まず終身雇用である。これが日本の雇用の特徴と言うと、まるで他の先進国ではバッサバッサと首切りがやられているのかという印象を受けるが、それは誤解である。
確かに、米国はバッサバッサと首切りがある。しかし、ヨーロッパを一緒にしてはいけない。例えばドイツなどは労働者の権利が堅固に守られている国であり、首切りなんて基本的にはできない。
基本的には首にできないので、その点では日本もヨーロッパと同じといえる。私は、終身雇用それ自体は問題ではないと考える。
私が真の問題だと思うのは、年功序列である。年齢や社歴を重ねるだけで給与が上がり、しかも下がらない。これは問題である。では、やはり実力主義が良いのか。
実力主義、と聞くといいなあと思うかもしれないが、何をもってその実力を測るのかというのが問題となる。
雇主や上長の一存でそれを決められるようにしてしまうと、その決定権を持つ人物の私情やらコネやらで、結局のところ公平性が阻害され、労働者側にとって益とはならない。
そこで、客観的に測れるものさしでその実力というものを決めて、この仕事の内容ならこの給与、というように定めたのが米国やヨーロッパの国々である。つまり、同じ労働なら同じ給与である。これは、どこの会社で働いていても、そうである。
それに対して、労働の内容ではなく、年齢や勤続年数で給与が決まるのが日本である。労働内容が異なっていても、同じ会社で働いていて、同じ年数を重ねればだいたい同じ給与になる。
この、日本のシステムでは、同一労働同一賃金がそもそも実現できない。いくらパフォーマンスが良くても、若い人は給与は低い水準となる。また、逆にいくらパフォーマンスが低くても、中高年になれば高い水準の給与がもらえる。
これが、俗に言う働かないおじさんと呼ばれるような社会現象を引き起こしている。
ただし、私は、なにもそうした働かないおじさんを全員首にしろなどとは思わない。なぜなら、首にまでしなくても、給与を下げて、できるだけの仕事は与えればいいじゃないかと思うからである。
しかし、日本という、儒教の影響を受けた文化の中ではそれは難しいのかもしれない。年功を重んじるため、先輩後輩という概念も生じ、また、年長者は若年者よりも給与が高くて当然という気風がある。
これが嫌なので、外資に行けば年齢や勤続年数などではなく、仕事の内容で給与を支払ってくれるのではないかと思い、外資系企業への転職に興味を抱いた。
しかし、米国系のバリッバリの外資系企業に勤める友人の話を聞くと、私のこの外資系への憧れは誇大妄想にすぎないのかもしれないと思わざるを得ない。
そろそろ降りる駅に着くので、それは是非次回書くとしよう。
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