東欧を寝台列車で旅行してみた!(後編)モルドバ、沿ドニエストル、ウクライナ

2018年5月10日木曜日

探検記

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 2018年2月20日から2018年3月15日までの18日間の日程で私は同じくドイツに留学中のたいら先輩と二人でハンガリー、セルビア、ブルガリア、ルーマニア、モルドバ、沿ドニエストル 、ウクライナの7つの国と地域を視察した。以下はその旅行記の後編である。前編はこちら


5. モルドバ、キシナウ (Chişinău):3/3~3/5



 さて、我々はルーマニアのブカレストにて3月2日の夜19時15分発の列車に乗り込み、約14時間にも及ぶ夜行寝台列車での移動を終え、3月3日の朝9時についにモルドバ共和国の首都キシナウに到着し、旧ソビエト連邦領に入った。その時のBGMはもちろんBack in the U.S.S.R. である。写真はキシナウ中央駅である。少しばかり一橋大学の兼松講堂に似ている。

 キシナウにて我々は軍事博物館に行った。そこで一番私の注意を惹いたのは1986年に起こったチェルノブイリ原子力発電所事故についての展示であった。事後発生後、被害拡大を阻止するため多数の作業員が事故現場に送り込まれたが、当時ソ連の一員であったモルドバからも人員が送られた。そこは広さ8畳程の小さな一室であったが、チェルノブイリ原発事故に関する様々の写真や資料が壁一面に貼ってあった。初期対応に当たった作業員たちをとらえた写真も多数あり、致死的レベルの放射能で汚染された現場でマスクをつけただけの男たちが緊迫の表情を浮かべ、真に必死の作業を行っていた。彼らの多くは放射線障害で死亡する。現場に最初に辿り着いた消防隊隊長の帰還後の写真もあり、彼はベッドの上で放射線障害に苦しんでいた。衝撃の8畳展示室であった。


6. 沿ドニエストル、ティラスポリ (Тирáсполь):3/4 (キシナウより日帰り観光)



 この度の東欧周遊が「7ヵ国」ではなく「7つの国と地域」である理由は全くこの沿ドニエストルにある。この地域は国際的には独立国家とは認められておらず、モルドバ共和国の一部であるということになっている。しかし実際は事実上の独立状態にあり、独自の政府を有している。1990年に独立を宣言した。

 写真にあるのがこのトランスドニエストルの「国章」で、ソビエト連邦の紋章の流れを汲んでいる。硬貨にもその国章が刻印されている。国旗もソ連のものと大変似たものであり、リアルにBack in the U.S.S.R. を目指しているすごい国(地域)である。

 日帰り観光であればビザは必要なく、キシナウからのバスで簡単に入れる。国境にてバスから降り、検問所にて一人ずつ窓口の兵士と対面し、入国許可証のような紙切れを受け取る。私を担当したのは40代後半くらいの真に軍人と形容するに相応しい様相の、軍服が似合うかっこいい将校で、私にロシア語は話せないかと尋ね、話せないと返答すると少し残念そうにしたが、入国は問題なく成功した。

 ティラスポリのちょっとした市場にて食事を取ろうと、レストランを探したがどこにもない。しかたがないのでカフェに軽食をとりに入った。そこで店の人に中国人かと聞かれ、いいえと答える。ベトナム人かと聞かれ、これにもいいえと答える。店の人は少し考えて、こんどはカンボジア人かと聞くので我々は日本人だと答えた。すると、その店の人とその会話を聞いていた客は非常に喜んだ様子で、なぜか我々と一緒に記念撮影をした。
 
 記念撮影の後に、客の一人であったおじいさんが、我々が何か食事をする場所を求めているのだと理解すると、軽食所まで案内してくれた。その道中で「ロシア語はわかりますか?」と聞かれた。私は大学1年の後期にロシア語の授業を取っていたのでその句は理解できた。私はきちんと「いいえ」と適切に返答した。ここに、ロシア語での会話が成立した。しかし、会話が成立したので少しは理解できると思われたのか、やはりずっとロシア語で話し続けてくる。もちろんさっぱりわからない。そうこうしているうちにとても小さなカフェ風の軽食所に着き、我々はお礼を言ってそのおじいさんとわかれた。料理は種類が非常に少なかったが、水餃子の様なものが美味しかった。

 ティラスポリからキシナウへの帰りのバス切符も無事に購入し、短いティラスポリ観光も十分堪能した。

 しかし問題は出国の際に起こった。国境検査の検問所でバスが止まり、18歳くらいの若い兵士がバスに乗り込み、内部を確認する。その兵士は我々の顔と日本国のパスポートを見つけると、バスから降りて付いて来てくれと丁寧な英語でいう。その言い方と表情がとても申し訳なさそうなので、不思議に思ったが、我々日本人二人組だけがバスから降りて検問所に案内された。

 検問所に入ると机と椅子があり、入国の際に私を担当したあの、軍人と形容するに相応しい様相のかっこいい将校が我々を迎え、どうぞ座ってくれという。座ってくれと言われても我々二人に対して椅子が一つしかない。どうしたものか迷っていると、その将校は何かを言いだそうとして、少し考え、また入国審査の時と同じようにロシア語は話せないかと聞いた。私が、申し訳ないがロシア語はわかりませんと言うとやはりまた残念そうな顔をした。

 そして25копеек硬貨を机の上に載せて英語で短い句を幾つか話し出した。どうやら、ソ連の紋章の付いたこの硬貨を我々に贈るので、日本の硬貨を贈ってほしい、つまりはコインの交換をしたいということであった。25копеек硬貨はもう持っていたのでそれは別にいらなかったが、5円玉やら10円玉があったら是非交換してあげたかった。

 しかし生憎我々は日本円をその時一円も持ち合わせていなかったので残念ながらそれは叶わなかった。それを伝えると、非常に残念そうな顔をしてわかったといって、我々と別れた。非常に惜しいことをした。今考えてみるとそれは完全なる職権乱用であったが。しかしこの一件以来私は常に旅先に、世界的にも珍しい穴あき硬貨である5円玉と平等院鳳凰堂が美しい10円玉を持ち歩くことにした。


7. ウクライナ、キエフ (Київ):3/6~3/10



 モルドバ、キシナウから夜行寝台列車に13時間揺られ、この度の東欧周遊の最終地点、ウクライナはキエフに辿り着いた。

 キエフにて一番驚いたのはその物価水準の低さである。コカ・コーラの500mlボトルが日本円にして約30円と、日本の1/4から1/3程の物価である。ウクライナ以前に訪れた国々ではファストフードや屋台フードやらばかりを食べていたのだが、ウクライナはとびぬけて物価が低い為、我々はここキエフにて初めて、きちんとしたレストランにて食事をとった。食べたのはウクライナの伝統料理、ボルシチである。素晴らしい味であった。

 さて、キエフにてはチェルノブイリ博物館というなかなか立派な博物館に行ったが、展示物の生々しさという点ではモルドバ、キシナウの軍事博物館にあった8畳の展示室の方が勝っていた。

 他には「大祖国戦争博物館」に行った。大祖国戦争というのは第二次世界大戦中における東部戦線、つまり独ソ戦のソ連側諸国による呼称である。


 この写真中央遠くに見える超巨大な女神像の足元に大祖国戦争博物館はある。ここに辿り着くには西側から行くのが良い。



 というのも、この地図からも分かるように、東側からは緑色の公園内を突き抜けることになる。夏ならよかったかもしれないが我々が行ったのは2月であったので雪の中の行軍を余儀なくされた。


 行軍の途中、雪の中にポツンと立っている何かを発見した。何とこれはWi-Fiだ。動作確認をしたら、きちんと機能していた。誰も通らないこの道でひたすらけなげにWi-Fiを飛ばし続けている。キエフの人も中々に洒落を心得ているものとみた。

 さて、館内では主に、如何にしてソビエト連邦がナチスドイツに打ち勝ったかについての展示がされていた。しかし中には日本軍についての展示も少しあり、出征する兵士に贈られた、寄せ書きが記された日章旗が展示されていた。その日章旗には出征兵士の名前と共に彼の出身地も書いてあった。それが何と、福島縣雙葉郡であった。とても感慨深い。




これはキエフの地下鉄ホームへ向かうエスカレーターである。べらぼうに長い。なんと地下100メートルにも及ぶ。キエフ地下鉄は世界で一番深い所を走っている地下鉄であるらしい。エスカレーターは日本のそれとくらべて速いが、如何せん長いので上から下まで約4分もかかる。最初は楽しい乗り物であると思っていたが、2回目からはうんざりした。全く不経済な乗り物である。


 この教会の近くに土産物を扱っている屋台が集まっている坂道がある。その名もアンドレ坂 (Andrivs'kyi descent)である。私はそこで旧ソ連軍の帽子とソ連バッジ、そして、贋作と思われる黄金NSDAP党員名誉バッジ(黄金ナチス党員バッジ)を購入した。これが後に厄介なことを引き起こす。

 さて、キエフ観光もいよいよ最終日になりドイツに帰国する日になった。飛行機は早朝6時40分発の激安航空である。余裕をもって4時に空港に着いた。そして保安検査を抜けた後に係員に別室に連れていかれた。

 そこで待ち受けていた税関職員は40歳くらいの男である。取り調べ中彼は意地の悪い笑みを僅かに浮かべ、今にも鼻唄を歌いだしそうな雰囲気であった。素晴らしい。やはり東欧の税関はこうでなくては。すると彼は荷物の中から例の土産物屋で買った黄金ナチス党員バッジを見つけ出し「フフーン。これはこれは」と嬉しそうである。

 なぜそのバッジが問題になったかというと、それが高価な文化財であると思われたからである。ウクライナでは希少価値のあるメダルや勲章などといった文化財の持出しが規制されている。私はこのことを事前に調べ、知っていたのであるが、ウクライナで買った一番高価なものと言えばこのバッジでそれは20ユーロであったので、全く問題になるとは思っていなかった。しかし、この黄金ナチス党員バッジはもし本物であった場合、非常に高い値がつくらしい。というわけで税関に引っかかった次第である。

 取り調べにて荷物を全て洗いざらい調べられたあと、どこでそのバッジを入手したかなどといった質問を受け、しばらくして「行ってよし」と言われた。少々時間がかかったが、もし領収証があればもっと迅速な対応が可能であった。ウクライナにてその様な類のものを購入する場合は領収書を貰うと後々税関にて止められた際に役立つ。

 その後、早朝の冷たい空気を吸いながらタラップを登り、私はキエフに別れを告げ、18日間にも及ぶ長い長い東欧視察は終了した。

「東欧周遊総括」に続く





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