早稲田大学卒の私が学歴社会に対して思うこと

学歴社会。生まれ持った身分や家柄に関わらず、勉強すれば誰でも社会の上の方の立場へ行けるという。
確かに世代間の教育格差連鎖というものがあるが、それをひっくり返せないことはない。現に私の父は高卒の人を馬鹿にするFラン大学出身者であるし、母は高卒だ。大学にFとかAとかいうように明確な序列があるというのもおかしな話と思うが、それについては後述する。ともかく、私の知る従兄と兄弟以外の親族の中で大学に行ったものは私の父だけだ。祖父母も他の叔父や叔母も大学へは行っていない。私の周りでは世間でいう難関大学入学者でありながらも両親とも高卒という人もいる。
そもそも、私の祖父母の受験時代、1960年あたりの話になると同世代大学進学率は約10%だ。同世代進学率が15%以下であるとマス(大衆)ではなくエリートの教育になるらしい。これはどういうことかと言うと、今80歳くらいの人々の若き時代には「大卒」という肩書きにエリートという意味があったということだ。
それに対して私が大学に入学した2016年には大学進学率は50%を超えている。大卒というのはもはやエリートではない。そのせいなのか、大学は大学でもどこの大学かということがことさら強調されている。大学は偏差値という数字に基づいて序列付けられている。受験生はその数字の高い大学への入学を目指して競争する。
そして、その出身大学の偏差値が高ければ高いほど、「良い」仕事にありついて幸せになれるというのが、世間一般の考えだ。それだから、競って塾や進学校に入れて勉強させるのだろう。私も大学への進学は両親によって決定されていた。高卒の母は「大学出ないと、ろくな仕事に就けないからね。あんたたち、絶対大学に行きなさいよ」と私と兄弟に幼いころから口を酸っぱくして言っていた。
でもどうだろう、その考えに非常に違和感を感じる。早稲田の同級生と私は就活中に意気投合した。こんな高学歴とか何かよりも、どこか田舎の漁村で生まれ、将来は漁師を継ぐというような人生がよかったと。ずっと幼馴染と故郷で育って、地元の高校に行って、偏差値なんてどこ吹く風。そんな生き方の方が幸せなのではないかと考えた。
実は受験生時代から、偏差値だとか受験勉強だとかいうものには疑いを抱いていた。しかし、自分はいわゆるお勉強というやつが出来る方であったらしく、偏差値というものが高いということになっていたので、受験勉強にのめり込んだ。そして将来、偏差値だとか大学の序列とかいう概念に文句を言う人になろうと思っていた。自分が世間で言うところの超難関大学出身であれば、「偏差値なんて馬鹿げている」と発言しても、僻みであるとは言えないだろうと考え早稲田大学に入った。いや、東大に対する僻みだという君、今度一緒に飲まないか?
さてもさても、そんな風にして、地元の田舎の教習所のおっちゃんに日本の将来を担ってくれだのなんだの言わながら、意気揚々と大学に入ったはいい。しかし、日本を、社会を引っ張るなどという壮大な夢とは裏腹に、実際に大学に入って知れば知るほど自分の無力さというものを感じ、エリートだなんて思い上がりだという考えが支配的になった。
話を戻そう。そもそも、それを誇りと思っていようが、コンプレックスに思っていようが、学歴ないしは学校歴なんてものは想像上にしか存在しない。そんな虚像を追い求めるのは虚しいことなのかもしれない。どちらが上でどちらが下かというのも想像上の概念だ。
それに早大内部に至っても、「看板は政治経済学部だ」「いや、法学部も負けていない」「商学部の偏差値が今年はトップだ」「国際教養学部の事務所と研究室が商学部の上の階にあるのは美しい"symbolism" だ (これは実際に国際教養学部のオーストラリア人ビジネス教授が言っていた」などというように、きりがない。そしてやはり、一歩引いて俯瞰するととても馬鹿げている。
しかし、そうこう言ってもそれを利用しない手はない。現にこの記事のタイトルが物語っている。早大卒の人が書いたものだから読んでみようと思った方がいらっしゃったら、あなたはまんまとはめられたのだ。私のように。