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4月, 2020の投稿を表示しています

私たちはみんな風俗嬢。

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ひろゆき氏が風俗に行かない理由として「 お金を払って他人が嫌なことをさせるっていうことが僕あまり好きじゃないんですよ 」と述べている。 さらに、「 お金を払って、他人がお金のために嫌なことをしているというのを見る加害者になるのが嫌 」「 かわいそうな奴隷をつくる側」 とも言っている。 その考えに対して私は申し上げたい。 お金を払って嫌なことをやらせるというのは風俗業に限らず、ありとあらゆる産業にいえること 「みんな売春婦さ。それぞれが己の違う部分を売っているだけだ」 イギリスのテレビドラマシリーズ「ピーキー・ブラインダーズ」からのセリフである。 私たちはお金を払っていろいろな人に嫌なことをさせている。そして私たち自身もお金を貰うために嫌なことをやっている。 今やっているその仕事、もしお金がもらえないのだったら絶対やらないでしょう?そんなことでもやらざるをえない。そうしないと生きられないからやるしかない。 金のなる木(資本)を持っているからパンのための労働はしなくてもいいというような例外的な人間もいるだろうが、基本的には上記の人間がほとんどであると思う。 となると、私たちは皆、かわいそうな奴隷をつくる側であるし、また、かわいそうな奴隷になる側でもある。 となると、風俗産業にだけ限定して避けているひろゆき氏は矛盾しているように感じる。 しかし、ひろゆき氏の主義主張はまったく矛盾しているわけではない。というのも彼はユニバーサルベーシックインカム(UBI)の支持者であるからだ。 その趣旨は生活最低限の収入を全員に保障しようというものである。つまるところ、全員の生活を保護するということだ。 そのシステムが導入されれば、誰もパンのために嫌なことをやったりやらせたりしなくて済むだろうということなのだろう。みんなやりたいことだけをやろうということだ。 これは、どうなのだろうか。 というのも、現状の嫌なことだがやるしかないというのは一見ものすごい矛盾であり、問題に見える。しかし、私は生きるということそのものが矛盾であるのではないかと考える。 生きていたくはないが、死にたくはない。 そんな矛盾をかかえて私たちは生きているように思う。 仕事をしたくはないが、死にたくはないので仕事をする。すると生きる...

新社会人としてフルで1週間働いた感想

まだ就活生だったとき、とある企業説明会で自分の輝かしい経歴を誇示しがちの人事採用担当が福利厚生の説明のところで言うのだった。「ライフワークバランスなんていいますけど、ライフ・イズ・ワークですからね!」 その目は完全にイっていた。 インターン先の某国内メーカーでは、なんでこんなにこの人たちは自分の会社のことが好きなんだろう、と思わざるを得なかった。 自社製品への愛が強すぎるあまりに、消費者目線になることができず、競合の利点や自社の欠点について盲目になっているというのが感想であった。 とにもかくにも、今までであってきたビジネスマンというものに狂気を感じることはたびたびであった。 しかし、どうだろう一週間フルで働いてみて考えがかわりつつある。 これほどまでにないほどに強く「生きている実感」というものを感じる。 もしかしたら、自分も狂い始めているのかもしれない。しかし、使命を帯びているという感覚があるような気がする。 そしてそれに加え、組織の人間としての帰属意識が心地よい。 一人の力ではとても達成しえない大なる目的を目指す組織の一員であるという実感がある。 なるほど確かに会社は軍隊のようなものなのかもしれない。 もちろん、のめりこみすぎるのも身を滅ぼすとわかっているので、やることはやって定時に上がって、仕事のことは考えないようにしようとする。でもふとしたときに考えてしまう。アイデアが浮かんでくる。 冒頭にも述べたとおり、自社愛が強すぎるのも、消費者目線といった客観的視点に盲目になる危険性がある。しかし、やはりどこかで帰属意識がある。 ゴッドファザーやミッションインポッシブル、007、そしてウルフ・オブ・ウォールストリートの世界に入ったような気がする。 組織への帰属と密かな熱狂。私が求めていたものがここにはある、という気がする。

ビジネスは戦争ではなくスポーツ

「ビジネスは戦場だ」 「24時間戦えますか」 「企業戦士」 このようにして ビジネスを戦争としてとらえる考えがあるが、それは物騒すぎるだろう。 まったく、暴力団じゃあないんだから。 ちゃんとルールもあるし、審判もいる。 そしてなにより、フェアにやらなければ。 社会人である以前に市民であるということを自覚して、生きていきたいものである。 というわけで、新入社員同志諸君、研修で聞かされる企業理念にのめり込むのもいいが、やり過ぎずに労働法もちゃんと勉強しよう。 それは市民として守らなければならないルールであり、不正があったときには各々がちゃんと審判に主張しないと、公平性が失われ、市民全体に悪影響がでる。 しかし、とは言ったものの、ビジネスにもどこか狂気を感じるのであった。

人生は暇つぶし

人間という生き物がいた。彼らは他の生きとし生けるものよりも高い知能を持った。すると、彼らは頭が良いものだからいろんなことが考えられるようになってしまった。すると、食べ物をえたり水をえるということをさっさと済ませられるようになり、暇な時間が生まれた。彼らは頭がいいものだから、暇になると色々なことに考えをめぐらせる。すると、おのおのには必ず死が訪れるということを考えてしまうようになった。すると怖くて怖くてしかたがない。暇になるとそのことばかり考えてしまうので、気を紛らわすためにいろいろなことをやり始めた。みんなであつまって祭りをやったり、芸術を生み出したり、巨大な建物をつくったり、空を飛んだり深海に潜ったりして他の生き物の真似をしてみたり、月に行ってみたり、それはもうさまざまなことをやりはじめた。他の生き物からすれば、この大地には食べるものも眠るところもちゃんとあるのだから、なぜそんなにも必死にいらないことをするのかわからない。しかし、当の人間たちにとってみれば怖くて怖くてしかたがないので、いたしかたない。なのでしかたなくひたすら暇つぶしに励むのであった。

カルロスゴーンに幸あれ

最近、上座仏教のアルボムッソ・スマナーラというお坊さんが書いた「仏教は心の科学」という本を読んでいる。それによると、怒りというものはよくないらしい。幸せになるには怒りではなく愛をもつとよい。嫉妬とは怒りなので嫉妬しないようにするために人の幸せを喜ぶようにするとよい。らしい。 というわけで、最近怒り、嫉妬を感じたのは、ちょっと前の話だけれども、カルロスゴーンがレバノンにゴーンしたことだ。どんな法律をどう破ったと疑われたのかはよく知らないが、日本の悪の司法からとかなんとか言って逃げやがって!チクショー!といった具合である。 怒りはよろしくない。たしかに、気分が悪くなる。なので、怒りではなく愛をもちたい。 カルロスゴーンさんも大変だったろう。飛行機降りたらいきなり捕まって、いきなり檻の中だもん。正義の名のもとに何をされるのか怖くて怖くて仕方がなかったことだろう。なぜかマスクとメガネの作業員のコスプレをさせられて、写真を撮られて見せびらかされたりして、傷ついたかもしれない。 それでもめげずに、本当かどうかは知らないけれども楽器ケースの中に隠れて出国という、めちゃくちゃドキドキの挑戦をした。そして、やっとの思いで、愛する奥さんの待つレバノンに行った。 大晦日にレバノンの家で奥さんと友達と一緒に夜ご飯を食べている 写真を報道で見ました よ。何はともあれ、幸せそうで何よりです。これからもいろいろと大変なことがあるかもしれませんが、ぜひ幸せでありますように。 おお。人の幸せを喜ぶというのはなんと幸せなことだろう。確かにいい心持ちだ。皆さんも試してみるといいでしょう。

早稲田大学卒の私が学歴社会に対して思うこと

学歴社会。生まれ持った身分や家柄に関わらず、勉強すれば誰でも社会の上の方の立場へ行けるという。 確かに世代間の教育格差連鎖というものがあるが、それをひっくり返せないことはない。現に私の父は高卒の人を馬鹿にするFラン大学出身者であるし、母は高卒だ。大学にFとかAとかいうように明確な序列があるというのもおかしな話と思うが、それについては後述する。ともかく、私の知る従兄と兄弟以外の親族の中で大学に行ったものは私の父だけだ。祖父母も他の叔父や叔母も大学へは行っていない。私の周りでは世間でいう難関大学入学者でありながらも両親とも高卒という人もいる。 そもそも、私の祖父母の受験時代、1960年あたりの話になると同世代大学進学率は約10%だ。同世代進学率が15%以下であるとマス(大衆)ではなくエリートの教育になるらしい。これはどういうことかと言うと、今80歳くらいの人々の若き時代には「大卒」という肩書きにエリートという意味があったということだ。 それに対して私が大学に入学した2016年には大学進学率は50%を超えている。大卒というのはもはやエリートではない。そのせいなのか、大学は大学でもどこの大学かということがことさら強調されている。大学は偏差値という数字に基づいて序列付けられている。受験生はその数字の高い大学への入学を目指して競争する。 そして、その出身大学の偏差値が高ければ高いほど、「良い」仕事にありついて幸せになれるというのが、世間一般の考えだ。それだから、競って塾や進学校に入れて勉強させるのだろう。私も大学への進学は両親によって決定されていた。高卒の母は「大学出ないと、ろくな仕事に就けないからね。あんたたち、絶対大学に行きなさいよ」と私と兄弟に幼いころから口を酸っぱくして言っていた。 でもどうだろう、その考えに非常に違和感を感じる。早稲田の同級生と私は就活中に意気投合した。こんな高学歴とか何かよりも、どこか田舎の漁村で生まれ、将来は漁師を継ぐというような人生がよかったと。ずっと幼馴染と故郷で育って、地元の高校に行って、偏差値なんてどこ吹く風。そんな生き方の方が幸せなのではないかと考えた。 実は受験生時代から、偏差値だとか受験勉強だとかいうものには疑いを抱いていた。しかし、自分はいわゆるお勉強というやつが出来る方であったらしく、偏差値というものが高...

乞食に寄付をするべきか

いつだったか、海外でこんな事件があったそうだ。クリスマスイブに外で凍えるホームレスの男性を見た女性がその人を可哀想に思って自宅に招き入れた。そして温かい飲み物と食べ物をあげて、その夜はその暖かい部屋の柔らかいソファーで寝かせた。そして次の日、女性は仕事があったので、男性にどうか出て行ってくださいと言った。すると男性は怒り、女性に暴力を振るって出て行った。その後女性はPTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱えた。 暴力を振るうというのは言語道断いけないことだ。どんなに怒っていたってそんなことはやってはいけない。しかし、なぜ怒ったのか。 寒くて寒くて凍えていた中、暖かな家に迎えてもらったときはさぞかし嬉しかったろう。人間の温かみを感じただろう。しかし、そのありがたみが大きかった分、また再び凍える路頭へ出て行ってくれと言われたときの悲しみもまた大きなものであったろう。ああ、やっぱり世界はこんなにも残酷なのだと再び絶望の穴に突き落とされる気分であったろう。そう想像すると、彼の受けた仕打ちもまた残酷だ。 では、その女性はどうすればよかったのだろう。困っている人を見かけたときにその人を助けたいと思う愛は美しい。では、それをどのような形で与えるべきであったのだろう。 日本ではあまり、お金の寄付を募っている乞食ということをしている人はあまりいないようだが、同じように路頭で暮らす人々がいる。多くの人は見て見ぬふりをして通り過ぎる。私も、通り過ぎる。 そんなときその状況をどう釈明するべきだろうか。自分のために贅沢をする金はあるが、その困っている人に分けるお金は一銭もない。前世の行いが悪いからだとか、怠けものだからとか理由をつけるのだろうか。自分とは関係ない、自己責任だと考えるのか。お金をあげてもその場しのぎの対症療法だからあげない。では、その代わりに政府などに根本的な解決を求めるよう何かしらを働きかけるというような面倒をするだろうか。 でもよくよく考えたら、きちんと社会にはセーフティーネットがある。私たち市民が助け合いのためにそのセーフティーネットを張っている。そう考えると、少し安心する。でも昨今は自己責任論がどんどん広がっているように感じる。助け合い支え合いの心の余裕が少なくなってきているのかもしれない。直接の寄付、納税、年金保険料収納にしても、政治に意見をす...

大富豪の慈善事業

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大富豪が慈善事業に大金をつかう。素晴らしいことのように思えるけれども、この動画を観て欲しい。 大富豪の慈善事業は思われているほど利他的ではないという動画である。 寄付を行うことによって租税を回避することができる。 他にもタックスヘイブンといった、大富豪の課税回避方法の闇が明るみにでている。 そもそも私たち市民の社会の仕組みを使って儲けたのだから、然るべき割合の儲けを税として納めて欲しいものだ。 そして、そのプールされた税金の使い方を決めるのは、市民みんなで選んだ代表者であってほしい。

メルケル首相演説に行って感じたドイツ人の市民意識

あれは2017年の9月、ドイツ留学二日目の昼すぎだった。 大学の広場にメルケル首相がやってきて演説をすると知り、ひとり市電とバスを乗り継いで観に行った。 美しき石造りの建物に囲まれた石畳の広場は人々で満たされていた。若者も老人もいた。 首相の登場をいまかいまかと待ちわびていると、ついに後ろの方で歓声が沸き起こる。 振り返ると、スペースをつくるために赤いテープをもったスーツ姿の護衛たちに囲まれながら、メルケル首相が満員の広場の真ん中を進んできた。 私はてっきり、ステージの横か後ろから出てくるものと思っていたので、歓喜に沸く観衆の中、それも自分から2メートルも離れていないところをメルケル首相が通ったのには驚いた。 それから首相は登壇し、司会とのいくつかのやりとりをした後、演説が始まった。 演説を聴いていると、目の前の中年男性三人組が「Grenzen dicht Asylwahn stoppen (国境を閉ざせ 難民狂気をとめろ)」と書かれた横断幕を壇上から見えるように高々と掲げた。 さらに、メルケル首相の鼻がピノキオのように伸びている加工写真も掲げていた。 彼らはメルケル首相の移民受け入れ政策に抗議しているようだ。 しばらくするとこんどは数人の若者集団がやってきて、その三人組の横断幕を遮るようにして「Rassismus ist keine Alternativ (人種差別は選択肢にない)」という横断幕を掲げた。 この若者たちは移民受け入れを支持しているようである。 しかし、この二つのグループになんら、いざこざや衝突がなかった。罵りあうということも一切していなかった。 演説が終わると、退散する人々の中をひとりの若者が籠をぶら下げながら、「トマトはいかがですか~」と言いながら練り歩き、笑いを誘っていた。食べるためでなく、投げるためのトマトである。 彼は政策に賛成と反対のどっちなのだろう。 この日、私はドイツの市民としての姿勢を感じた気がする。 前回の記事『「社会人」という言葉にみる日本の異様性。人は生まれたときから社会人では?』からの続きであるが、 社会人であるまえに市民であるべき との考えが漠然と浮かぶ。

「社会人」という言葉にみる日本の異様性。人は生まれたときから社会人では?

こんばんは。今日もおつかれさまです。 3月が終わり、大学を卒業しました。これでいわゆる社会人というものに私もなったようです。おめでとうと言われますが、正直なにがめでたいのかわかりません。 「新社会人」、「社会人としての自覚をもって」といった言葉に不気味さを感じてやみません。 というのも、日本語の「社会人」という概念に違和感を覚えるのです。 社会人って英語でなんて言うの? そういえば英語では社会人という言葉に相当するものがない。 上のリンクの回答にあるように、そもそも学生も社会の一員であるし、子供も大人も全員が社会の一員であるはずです。 それがなぜか日本では、それまでそうではなかった人が、社会人というものにいきなり変容する。 いままでは社会人ではなかったということですから、社会の一員であることと社会人と呼ばれることは同じ意味ではないようです。 いや、それとも、社会とよばれるものの定義が曖昧でしょうか。 学歴社会、格差社会、少子高齢者社会、日本社会、アメリカ社会... こうしてみると社会人という言葉が指す社会はいったいどの社会なのだろう。そしてその社会には誰が所属していて、誰が所属していないのか。 次回 は、ドイツ留学中に私が主観的に感じたドイツ人大学生の社会に対する姿勢から「社会人」というもののあるべき姿について考えてみたいと思います。